「僕らがやりたいと思っていたことと、物件のコンセプトが合致したんです。さらにうちはコーヒー屋。物件名もぴったりだったので、そのまま店名に使わせてもらいました」
そう話すのは店長の太田原一隆さん。新たなスペースを求めるにあたり、場所にはこだわらず、“ここでお店がやりたい”と思える物件との出会いを求めていたという。
「下北沢で10年、お店を続けてきました。土地柄、アーティストやミュージシャンなど、創作活動をするお客様との縁が多くでき、彼らと一緒にワークショップなどのイベントができるような場を持ちたいと考えていたんです」(太田原さん)
フルリノベーションが施されていた2階住居には、太田原さんが夫婦で入居。一方、“改装OK”で貸し出していた1階店舗は、太田原さんが友人知人の手を借りて改装を施した。
「未改装で貸すというアイデアは、まったく思いつきませんでした。それで借り手がつくのだろうかという不安もありましたが、結果的に、この建物が持つ魅力を理解してくれる人に出会うことができた。既存のまま貸し出すこと自体、入居者を絞り込むためのブルースタジオ的戦略だったわけです。さまざまな業種の方から入居相談がありましたが、思いをぶらさずに入居者を選んで本当によかった。コンセプトって大事ですね」(健一郎さん)
場所がローカルでも建物が未改装でも、入居者の共感を呼ぶことはできる。太田原さんと『Kettle』との出会いは、デザインだけが集客の要ではないことを教えてくれる。
既存の空間がほぼそのまま活かされた店内は、凝った造作の木製建具や、昔懐かしいチェッカー床はそのまま。太田原さんが新たに取り付けたオーダーメイドのステンドグラスの欄間も、まるで以前からそこにあったかのように、すっと空間に馴染んでいる。
「喫茶スペースは居間だったところ。お義母さんが好きだった居間からの庭の眺めも、お義父さんこだわりの建具も庭も、変わらない。ふたりのこの家への想いを少しでも受け継ぐことができたらと思っていたので、うれしいですね」(久美子さん)
当時、秋山さんご夫妻は、木をふんだんに使った家づくりを売りにしているビルダーとともに、この家をフルリノベーションして専用住宅として再販する計画を進めていたが、「再生するのはいいけれど、この家ならではの特徴がどう活かされ、どんな人がどんな風に使っていくのかというビジョンが見えなかったんです。ブルースタジオを特集するテレビ番組で『大森ロッジ』という長屋の再生事例を見て、この会社なら私たちの意向を汲んでくれるんじゃないかと思ったんですね。かくして大正解だったわけです」(健一郎さん)
『Kettle』の徒歩圏内には、府中の森公園や府中の森芸術劇場があるものの、最寄りの東府中駅周辺の商業施設は乏しく、人の流れは隣駅の府中駅へ。健一郎さんは、かつて宿場町として栄えたこの街の盛り上げに尽力できないかという思いも抱いていた。
「昔からあった古くて味のある建物が、どんどんマンションに建て替えられている。よそから遊びに来る人だけでなく、新しい住人も増えているのに、この街らしい魅力を持つ店はまだまだ少ないんですね。日々変わっていく街の中で、かつての街の姿を感じさせる存在として、この建物が息づいていってくれたらうれしい。もしも手放していたら、こんな風に生まれ育った家や街との縁が続くことはなかったでしょう」(健一郎さん)
取材を行った日はCOFFEA EXLIBRIS kettleが開店してから2週間後。平日にも関わらず、代わる代わるお客さんが訪れ、常連客さながらにくつろいでいた。
「先日、開店したばかりなのに、すでに口コミで評判が広がっているようです。近隣でのニーズがあったんでしょうね。先日、義理の弟夫婦がここを訪れた時、縁側の席でコーヒーを飲んでいたら、『しんみりした』って言うんですよ。こういう古い建物には、心のふるさとのようなものを感じるのじゃないでしょうか。ここに訪れるお客さんにも、そんな気持ちを感じてほしいですね」(健一郎さん)
建物が積み重ねてきた時間やオーナーの想いに、入居者や街という要素を加え、再編集。より厚みを増した『Kettle』の物語は、これからも新たなページが綴られ続けていく。