「ゆるす」と聞いて何を思いますか。
普段何気なく生きていても、ふと「あっ」と気づく瞬間がありますよね。
ありますよね...?!
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先日、舞浜にある夢の国に行った帰り、
年齢も体質もありパンパンに浮腫んだ足に鞭打ちながら
乗り継ぎの駅でだらだらと歩いていたときのこと。
ちょうどエスカレーターに乗る直前でした。
「!!」
「すみません...!」
私と同じく夢の国から現実世界へと戻る大勢の人たちの中。
駅構内ではちょっとした人の渋滞が起きていたのですが
前を行く若い男性との歩幅・ペース・リズムが合わず、
私は思わず男の人の靴のかかとを踏んでしまいました。
疲れていて瞬発力は普段よりも劣ってはいましたが、
踏んでしまった!と気づいてすぐに「すみません」と言いながら頭を下げる私。
何もいうことなく、エスカレーターの2段下に立っている私とは
目が合わない程度にズーンと後ろに目線を持ってくる若人。
引き続き、何も言わず踏まれた足(つま先)をドンドン。
すごく嫌そうな、イライラした雰囲気をまとっていく若人。
その光景を目の当たりにし、私はびっくりするのもつかの間、
「はぁ?!」という感情になり、その後とても悲しい気持ちになりました。
疲れていたとはいえ、夢の世界で心が満たされていたのに、
誰かに怒りの感情を向けられたことに、悲しくなりました。
そして、その若人に対して、私も怒りの感情が沸き立ちました。
でもその時でした。
「あっ」と気づきました。「これが戦争を生むのだな」と
私はあくまで向けられた敵意・怒りに対して
「なんだ若人!」と同じく怒りの感情をその男性に向けたのですが
この、一見受け身にもとれる姿勢こそまごうことなき悪意なのではないか。
悪意とは他人を憎み、害を加えようとする気持ち、らしいですが、
この悪意が存在する以上、争いは無くなりませんよね。
そしてこの悪意の正体は「ゆるさない」ことです。
私は、若人の怒りを向けられた立場として、その相手に対して
「なんだこのー!」と思うことは正当な権利と思っていた気がします。
正当防衛というか、悪気がないというか、受けて立ちますよ的な。
でも私からは攻撃していませんよ、という感じの、そんなニュアンスです。
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「ゆるす」には、「許す」「赦す」「恕す」という漢字があります。
許す・・・不都合なことがないとして、そうすることを認める。
赦す・・・罪・過失・無礼などをとがめないこと。容赦。赦免。
そして、恕すは、「思いやりの心で罪や過ちを許す」こと。
許すでもなく、赦すでも足りず、私は恕すことができていなかったのだなぁと思います。
赦すも形上はゆるしているようですが、なんだか心のうちは
まだゆるしきれていない感じですよね、なんとなく。
そう思うと、「恕す」ことは相当難しいことですね。
ハードです。ハードモードです。
人を恕すことができたなら、大前提として、自分自身も恕せているはず、ですよね。
自分を恕すことは、きっとありのままの自分を受け容れて、認めていること。
そして、それは自分を愛せているということにつながる気がします。
自分を愛するということは、良いところも悪いところも全てひっくるめて、
この存在に満足することです。
それそのまま認めてあげること、です。
、、、そうです。
スーパーウルトラハードモードです。
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私の好きな作家さんで、疫学者の三砂ちづるさんは自身の著書の中で
「子どもを育てるということは許されることを学ぶことだと思う」と言っています。
親は仏でも神様でもなく、不完全な存在なんだからかならず間違うし、失敗もする。
だからこそ、子育ての中で親は子どもから許されるのだ、と。
これは裏を返せば、誰もその時点で完璧な完全な存在はいないのだから、
その状態をまずは受け容れることの大事さも含んでいると思います。
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私たちはみんな、不完全な存在だからこそ、自分を愛し恕すように、
他人も愛し、恕していきたい!ですね。
秋になり涼しくなってきたからか、冷静になってそんなことを考えていたら、
あの時の若人を何も言わず強くハグしたくなりました。
あの時敵意を向けてしまった若人よ!
すみません。こんな不完全なわたしを恕して...。