ケイジです。
最近、『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』という本を本屋で立ち読みをしたところ、気になって買ってしまいました。
「第19章 文明は人間を幸福にしたのか」をパラパラと見たところ、実はあまり「重め」の本は苦手なのですが、思わず買ってしまったのです。
なぜ目についたかというと「以前『中田敦彦のyoutube大学』でこの本が紹介されたのを見たから」というミーハーオヤジにありがちな理由でして、何やらすごそうな本だということは知っていたのと、中田さんが最後の方で『「それで幸せになれましたか?」と聞くんですよね〜』と言っていたのが印象に残っていたからです。
ご存知の方も多いと思いますが、『サピエンス全史』はユヴァル・ノア・ハラリというイスラエル人歴史学者が2011年に書いた、人類の歴史を概観する大著です。
1章から18章まで、ホモ・サピエンスが石器時代から、虚構を信じることにより協力が可能になるという彼の言う「認知革命」を経て世界を支配するようになり現代に至るまでを延々と語り、その次の「それで幸せになれましたか?」の章が19章です。
この流れからおわかりのように、「必ずしも幸せではないですよね」と書いてある訳です。
幸福度を測るある研究から、「幸福は客観的な条件、すなわち富や健康、さらにはコミュニティにさえもそれほど左右されない。(略)幸福はむしろ、客観的条件と主観的な期待との相関関係によって決まる」ことや、化学から見ると「永続する幸福感は、セロトニンやドーパミン、オキシトシンからのみ生じる」としながらも、また別の研究から「幸せかどうかはむしろ、ある人の人生全体が有意義で価値あるものと見なせるかどうかにかかっている」としています。さらに、その幸福にとって重要な認知的・倫理的側面は、時代によって大きく変わる「妄想」に基づく人生の意義に基づいているものだと、ハラリは断じています。
そしてこの章の最後に、宗教や哲学が上記とは異なる「幸福」へのアプローチをしてきたことを記しています。
特に仏教哲学の考え方を挙げており、仏教によると「むしろ苦しみの真の根源は、束の間の感情をこのように果てしなく、空しく求め続けること」にあり、「人間は、あれやこれやの儚い感情を経験したときではなく、自分の感情はすべて束の間のものであることを理解し、そうした感情を渇愛することをやめたときに初めて、苦しみから解放される。」と述べています。
そして「もしこれが事実ならば、」と仏教の思想と一定の距離を置きながらも「幸福の歴史に関して私たちが理解していることのすべてが、じつは間違っている可能性もある」とした上で、歴史が「幸せや苦しみにどのような影響を与えたのか」についての言及がないことは「人類の歴史理解にとって最大の欠落」と指摘しています。
確かになんとなく、人類が幸せになるために文明があるような気がしていましたが、ハラリさんが言うように必ずしも文明が人類を幸福にしているわけではなさそうですね。。。
オトウチャンも、たまに「幸福とはなんだろう・・・」とたそがれてしまうオジサンにとっくになってしまっているわけなので、このようについ『サピエンス全史』を手に取って考え込んでしまったわけです。
ちなみに、この頃私が幸福を感じるのは、息子たちと麻雀卓を囲んでいる時です。
夏休みというのにインドア派の我が家の3兄弟はほぼ家にいまして、いいのか悪いのかは微妙ですが、家族で「囲む」機会が増えています。。。
(写真は6年前のものなので、実際はそれぞれかなりデカくなっています。)
ブログ記事(2017.3.8) 『家族麻雀』 : https://www.bluestudio.jp/magazine/blog/003544.html
「どうすれば幸福になれるのか」という深遠な探求は、おそらく果てしなく続くのでしょうが、夏が過ぎていこうとしている今日この頃、日常の瞬間に幸福を感じられるよう、オトウチャンも仕事に家事に、引き続き精進したいと思います。
ケイジ