花見をしに行ってきました。初めてではないが、毎回感動されました。初めて観光で東京を訪ねたのはちょうど桜の季節でした。あの時、たまたま青山霊園を通って、墓地で多くの人がピクニックしたり、お弁当を食べたりする景色を見て、ショックでした。なんで桜が人を集めっているのか、なんで年齢も性別も国籍も関係無く、人間が自然に桜が綺麗だと思っているのか、なんで毎年も同じ景色を見てきたおじいちゃん、おばあちゃんたちがまだまだ感動し続いているのかを考えてしまいました。
昔見たNHKのJapanologyという番組を思い出しました。根津と谷中辺りの街並みを紹介するエピソードがあって、あそこの風景を通じて侘び寂びについて紹介されました。日本人は昔からそういった美意識を楽しんできたでしょう。英語の番組でしたので、 Imperfection, Impermanence, Incomplete, Simplicity, Serenityを楽しむといったキーワードが出てきました。ただし、もう1つ重要なポイントは、その中には循環があり、そしてその循環の中に柔らかい変化が起こることであるのではないかと思っています。数週間の中に変化していく春の桜と秋の紅葉はおそらく侘び寂びを教える最適な教科書でしょう。
去年の2月ごろにすみだ北斎美術館に行ってきました。葛飾北斎の絵に重複する動きが強調されるのが感じていました。波、雨、風、雲、季節、労働者、旅する人などが多かったです。絵の前にいた時に繰り返す波、橋を渡し続ける人々がアニメションのように見え、凝視し続けていました。ただし、その時は美術館自体がアルミパネルだらけで夏には眩しいだろう、こんな変な形にしているのがなんの意味もないじゃんと建物の設計になかなか納得できませんでした。
ですが、今年の春にまた訪ねに行きました。今回行った時に改めて見直しました。何で気に入らなかったのに2回も行ったのかというと、実は建物の前にある公園が好きでした。あまり広くはない普通な地区公園ですが、あそこは1回目に行った時も、2回目に行った時もたくさんの親が子供たちを連れ、楽しく遊んでいた景色を見て、素敵な公園だなと思っていました。今回は美術館の北側にある鉄道を渡って徒歩1分ほどの住宅街の中にも公園があるのを発見しました。とても近いのに、あそこにはほとんど人がいなかったです。それで、実はその美術館は人を集める魅力を持っているのではないかと気づきました。葛飾北斎の作品を見に行く人だけではなく、近くに住んでいる人たちもそうです。
人間は動物なので、自然に心地良い所に集まったり、留まったりします。縁側に映る木漏れ日に優しい日差しの動きが感じられ、枯山水に重複する波が想像させてもらい、そしてそのアルミパネルだらけで、形状がおかしい美術館には1日中の天気の変化と周りの環境を柔らかく反射し、、公園で遊んでいる子供たちの背景になっています。あそこで柔らかく変化し、重複している風景が葛飾北斎の絵になりました。なぜ桜がイベントがなくても、商業施設がなくても、人が集まるのが、なぜ人間の世界と霊の世界の境界までぼかすことができるのが少しだけ分かってきた気がしています。