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アンエディブル・シティ・トーキョー

こばゆ

心と体の健康を第一に暮らす。最近ハマっていることは公園で昼寝。AGRICULTUREとARCHITECTUREの融合を志す。その先に見える風景とは。


身の回りに無料で手に入るものはどれだけあるだろうか?
空気は無料。雨水は無料。太陽光は無料。
これは日本中どこでも誰でも共通して無料で手に入る。

では、自分の土地以外に存在する山菜は?木の実は?小石は?
実は上記は、勝手にもって帰ると違法になる場合がある。
公園や河原だとしても自然公園法や河川法で禁じられている。

こう考えると無料で手に入れられるものはほとんど無いと言えるかもしれない。

いやいや、スーパーで段ボール無料でもらえるじゃん。ウチは無料で隣の農家から無料で籾殻もらってるし。
という反論もあるかもしれない。確かにそうだ。しかし、これは、最初に述べた空気や雨水や太陽光とは別の性質を持っていると思う。
スーパーにとって、段ボールを処分するのにはお金がかかるから、無料で引き取ってもらったほうが得というwinwinの関係。
籾がらは農家にとっては大量にあるから、もしご近所さんが欲しければタダであげるから、仲良くしようね。というギフトの関係。
つまり「関係性」の有無が前者との違いだと考えられる。

では、なぜ、空気や雨水や太陽光は無料なんだろう。それは、そのもの自体を権力によって管理・制限できないからだと私は考えている。
明日から空気は有料にします。空気税を支払ってください。とか言われたら、ふざけんな!と暴動が起こるに違いない。

では、果たして、山菜や木の実や小石が、権力によって管理され始めたのはいつからだろうか?
公園法や河川法が成立する前は自由に採集できたのだろうか?それとも別の法律で禁じられていたのだろうか?
それを調べ始めると本格的な研究になってしまいそうだから、今はやめておくが、少なくとも、かつては入会地(コモンズ)が存在し、村落共同体で管理を行い、そこに属するメンバーは共同体の規範の範囲内でそれらを無料でそれらを手に入れることができたはずだ。
たとえば「おじいさんは山へ柴刈りに」の柴刈りは、まさにコモンズである山で、農業のための草肥の材料を無料で手に入れにいくことだった。

ところが、資本主義が浸透するにつれ、もはやコモンズが無くてもお金があれば様々なものが手に入るようになった。
そして、コモンズはどんどんその範囲を狭めて行った。今まで共同で管理していた無料のものが、商品となり、お金を媒介にして交換されるようになれば、権力による管理が可能になる。
だから、今私たちは無料で木の実を手に入れることはできない。(上記で述べた「関係性」がある場合を除く)
資本主義はコモンズを縮小させ、あらゆる資源をお金で取引できるようにすることによって、権力の範囲を広げて来たと言うことができそうだ。

そんな行き過ぎた資本主義に風穴を空けるような運動が起こっていることを最近知った。
「エディブル・シティ(食べられる都市)」と呼ばれているこの運動は、都市で育てられている植物を誰でも収穫して食べてもいいし、誰が世話をしてもいいらしい。
街路樹を食べられる果樹にして、誰でも収穫していいとする街もある。
このような取り組みは、ドイツやアメリカなど、各地で産声をあげ、新しい時代のコモンズが都市に生まれている。

さて、身近なところで、最近野川公園に行くと、野川沿いに並ぶ桑の木が熟していて、みんな袋を片手に桑の実を収穫している。
みんな楽しそうに収穫している風景を見ると、これを禁じる法律はなんだか無粋なものに感じてくる。
桑の実なんて放っておいたら熟して落ちて腐るだけなので、だったらみんなが楽しく自由に桑の実をとれる公園は、とても素晴らしいのではなかろうか。もっと大らかな気持ちで都市を使いこなしたい。

先程のべた籾殻や段ボールなど、「関係性」により無料で資源を得る行為、そして、管理の枠組みを変えることで無料で資源を得る行為、これら、お金を介さない資源の獲得は、様々な文脈で再び見直されて来ている。
お金は地球上どこでも価値の交換を可能にするというとてつもなく便利なものだが、コロナでも見直されている「身近な地域」においては、必ずしもお金が最良の価値交換手段では無いのかもしれない。
そんな可能性を示すエディブル・シティの取り組みは、東京でもできないだろうか。

少なくとも、公園の桑の実ぐらい心置きなく、シロップにしてソーダで飲みたいものだ。





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