中古住宅を購入しました。
自分たちで家を設計し、つくっていきたいと思います。
せっかく家をつくるので、考えたことを文章にしたい。
文章を書くことで、考えを整理して、家づくりに反映したい。
そんな想いで、「家を考えるシリーズ」をスタッフブログで展開していきたいと思います。
第一回目は、だいぶ文章ばかりになってしまったので、読んでいただける方には負担をかけてしまって申し訳ないです。
今後はもう少し写真多めで、設計や施工の話も載せられるかと思います。
よろしくお願いします。
そもそもなぜ家を買おうと思ったのか。
賃貸にお金を払い続けるのが勿体無いというのもありましたが、
一番の理由は、遠慮なく「自由」に、自分たちの手で、やりたいことを形にできると思ったからです。
僕は、家で木工をしたり、陶芸にチャレンジしたりといった工房が欲しい。
庭に果物を植えて、自家製のジャムをつくりたい。
妻は、縫い物ができる大きなテーブルがほしい。
いろんな場所で集めたもので、骨董屋さんをやりたい。
などなど。
やりたいことが溢れ出て来ます。
ふと、家づくりにおける「自由」って何だ?ということが気になり始めました。
よく自由設計とか、マイホームで自由な暮らしを手にいれる、とかいう宣伝文句を見たり聞いたりするように、
どうやら、家づくりは、現代の社会において「自由」な行為だと認識されているような気がしてきます。
しかし、それは本当でしょうか?
自分自身の体験に照らし合わせると、家というのは決して「自由」な空間ではありませんでした。
高校生まで実家に住んでいましたが、朝は6時台に起こされ、朝ごはんは家族で食べて、学校へ行き、帰る時間が遅いと心配され、テレビを見ていれば「ダラダラするな」と言われ、夜更かししてたら注意される。どんな家でも子供はだいたいこんな感じだと思いますが、多くの子供にとって家は「自由」な場所ではないと思います。
(※とはいえ、今思い返すと割と幸せな環境だったと思います。)
そんな高校生の自分が、暮らしの中で「自由」を感じられていたのは、テニスコートでした。
もちろん部活なので、決められたメニューをしなければならない時もありました。
しかし試合になれば、テニスは基本的に個人競技なので、自分の行為が勝敗を決めます。
「相手のミスを引き出すプレーをしよう。あるいは、前に出て攻めよう。」といった作戦を、自分の持つスキルと、相手のスキルを見定めて、自分の判断で実行できます。
それはある意味、勝つための「自己表現」です。
試合の中で「自己表現」をしている時、とても「自由」だなと漠然と感じていた気がします。
少し話がそれましたが、まさに「自己表現」ができることこそ、家における「自由」なのではないかと思います。
実際の家での生活は前述のように、(もちろん子供だけではなく、親にとっても)大方「自由」とはかけ離れていて、親は親として、子供は子供としてのふるまいをすることで「家族」が成り立っています。
でももし、家で「自己表現」を行える時間が少しでもあったら、それは家における「自由」と言えるのではないでしょうか?
親としてではなく、子供としてではなく、自分として、何かを表現する時間。
絵を描く時間、音楽を演奏する時間、物語を書く時間、工作をする時間などなど。
そんな「自己表現」をする時間を実現するための、「空間」をつくることこそが、自分が家づくりに感じている「自由」なのだと思います。
そういう意味では、自由に間取りが選べます、とか自由に壁紙が選べます、というのはあまり本質的な「自由」ではないと思います。
他にも、「カフェ風」とか「カリフォルニア風」とか、そういうスタイルを自由に選べる場合でも、「自己表現」をしているようで、実は他人の作った「〇〇風」という記号的なイメージの型に自分を当てはめているだけに思えてしまいます。
むしろ、緑の見える明るい窓際に椅子を置いたら、いい絵がかけそうだ、とか、テーブルの横にこんな照明があれば良い物語が浮かびそうだとか、そんなシーン想像しながら、自分の感覚を頼りに、空間を設えていくことのほうが、よっぽど「自由」なのではないかなと思います。
今書いた文章は、かなり偏っていると自分でも思います。
でも、家づくりをする上で、自分の「感覚」はとても大事だと思うので、それを忘れないように、あえて文章にしてみました。
ということで、次回のブログに続きます。